昭和52年07月15日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 私は今朝方こんなお夢を頂いた。もうとてつもないガラス張りの大きなお家です。その中に私が居るのです、そのガラス張りの家の中に。そしたらそのガラス張りの向こうからもう何と言いましょうか、もう本当に懐かしげと言うか親しげと言うか、ガラスの向こうにあって、ガラスの向こうから手をこう当てておられるんです。それで私も行ってこう当てたら唇をこう持ってきますのです、だから私も唇をこう持って行ったけれどもそこに厚いガラスがあって、つとまるものがないと言った様なお夢でした。
 本当にあのまあ合楽、合楽と良い意味でも悪い意味でもまあ、金光教の信心を頂いとる人ならば まあ合楽の事を知らない人はあるまいと思います。それで少し合楽の内容をここの新聞とか、おかげの泉なんかで分かった方逹は、言うならば一つの魅力を感じておるのではないでしょうか。もしこの壁がなかったら行って見たいと言う様な人達もあるだろうと思います。佐田先生、矢野先生、岩部先生、たちの場合は言うなら厚い壁を破って入って来たわけです。
 そう言う人達がもう全国に沢山あるのぢやないかと思う、問題は矢張り又ガラス張りと言う事は合楽の場合は赤裸々ですし全ての事がガラス張り。例えばここの経理なんかの場合は総会の時に皆に発表される位いですから。もう本当にガラス張りと言うたらこれ位いガラス張りはなかろう。しかもお初穂の整理でも総代さんが受け持っておやっとられると言った様なね、教会はそう沢山はなかろうと思う。本当に全ての点がガラス張りである。同時に中での動きと言うもの、一目瞭然わかるわけです。
 そして成程こう言う行き方があったのか、こう言う助かりの理念と言われる、合楽の理念と言うものは、どう言うものなのかと言う様に皆が関心を持ち出す、又持ち出している人もあるだろう。それには矢張り一つの勇気がいる。言うならばその入り口を探さにゃならんと言うか、又破って入って来なければならんと言うか、いかに手と手をガラスの向こうとこっちからしても、いかにも会ってある様であっても、ガラスが邪魔してますから交流する温かさも冷たさも言はば感ずることは出来ないのです。
 私は教祖金光大神というお方は、天地金乃神様とのそう言う意味で交流がお出来になられた方である。此方が祈る所天地金乃神と一心なり、もう天地金乃神又は、金光大神も一体である。そう言う世界を顕現されたのが、教祖金光大神様。成程金光大神助けてくれと言えば助けてやる、とまあ言われる所も、そう言う所であろうと思います。そこでなら私と金光大神、沢山色々お知らせを下さってあります。その言うならば肝心要めの所で私と金光大神が交流しておる。
 言うならば合楽理念はそのなら産物だと私は思うんです。私と金光大神の交流がこう言う素晴らしいものを造り出したと言う事になるのです、しかもどう言うものが生まれて来るかと言うと、只祈念力が強いから人が助かるとか、又は様々な助かりの在り方と言うものがあります。そちらの先生がもう只有り難いの一念で有り難いで、この方の道は有り難いで開けた道だから有り難いでは苦労はさせんと言う程しの有り難いものを頂いて沢山な信者を擁して、教会が助かっておられると言う教会もあるのです。
 そりゃ教祖様の御信心の一断面なのです。有り難い有り難いと言う一念、また教祖様に傾倒して、教祖様のためならば、金光教の発展のためならば命もいらんと言う程しのはまり方で願いに願って行かれる先生もあります。そこにおかげのル一トが生まれたと言うことになるのです。親先祖を大事にせなければならない、特に目に見えない世界の魂、特に御霊様を大事にせなければならない。と言って御霊様専門に御霊様をお救いしてそして成程人が助かっておるという、勿論金光教の中にもそれがあるのです。
 我なる神が言うならば現れて、一生懸命研きもし改まりもなさって御修行をなさってそして自分のこの何と言うでしょうかね、自分のこの胎内から発散する働きと言うか、力と言うかあれは何と言うでしょうかね。ここで久富繁雄さん当りの場合なんかは是に類するのでしょうね。自分で持っておられるその胎内から出てくる良いものが人の体に触っただけで痛みが止まったり病気が治ったり、医者の見放した病人が助かったりとか言う様な事で大変な御比礼を頂いとると言う教会もこの金光教のなかにあるのです。
 だからそれではいけんこれではない、金光教とはこれだと言うものは実はない、と言う程しに天地金乃神様のご信心と言うものは広い大きいのである。けれどもそれは金光大神の言うなら信心の一部であって、一部でもそこに繋がるものがあり交流するものが出来るとそのル一トを辿っておかげが頂ける、と言う事は分かります。けどもこれではね、なら世界の名教とは私は言えないと思うのです。
 金光様の信心はどこまでも、天地書附におしめしになっとられます様に、『生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり』その言うならば天地書付が基軸となって、表れてくるおかげでなからねば言うならば本当のおかげとか、嘘のおかげとかはないけれども、本当のまたより本当とは言えないと思うんです。そう言う意味でです、なら私と金光大神が肝心要、所が通っておる私と金光大神が肝心要の所で、ピッタリ合っておる。そこから生みなされておるのが、今日の合楽の御比礼であります。
 又は南米で凄まじい勢いで持って、おかげを頂いておるそう言う素晴らしいものが生みなされておる。金光教始って恐らく外人の方達がどん々助かるなんぞ恐らく初めての事でしょう。それは私と末永先生との肝心要の所が交流しておるから生みなされておる。のですこの頃、久留米の田中先生と御本部の先生が見えた時に、手紙をあちらから来た手紙を見せました、本部から来た先生はもうパラパラパラとめくって見とられました。田中先生は一つの手紙を取って所どころ拾い読みされてこう言う事を言うとられた。
 もうこれは、親先生有り難うございます、親先生有り難うございますが、いっぱい書いてあると言って感動いっぱいでそんなこと言っておられました。手紙の中に親先生有り難うございます、親先生有り難うございます、もう初めから最後まで親先生有り難うございますですねと言って、まあそこん所だけ見られたと言う感じでした。如何に私となら末永先生が肝心の所が交流しておるからここで頂いとる様なおかげ、いやひよっとすると此々で頂いとるおかげ以上のおかげと言っても良いでしょう。
 白人があり黒人があり、黄色人種があり純ブラジル人があり、日系人があると言う、日系のブラジル人があると言う。しかも参拝は日本人の方よりも遥かに外人の人が多いと言うのだから只驚く以外ないです。ですから末永先生の場合は親先生と言えば天地金乃神様の働きがそこに起こっておると言う事が解るですね。私が申しますと如何にも私が自分よがりの事を申します様ですけど、ここで生まれた合楽理念と言うものは、教祖様の信心の言うならばです神髄、言うならば大事な所と大事な所が交流した。
 そこから生まれてくるのですから本当のものが生まれて来ておるのです。ですからどうでも私はね、金光教の信心が合楽理念に統一された、金光教にならなければ金光教の本当の御比礼はないとすら思います。と言う程しの言うなら大変な事を今合楽では皆さんは聞き、又それを見たり聞いたりなさっている分けです。ですからどうでもです言うなら私と交流する言うなら手立てと言うなら合楽理念をマスタ一さして貰うて、そこから生まれてくるおかげを頂いて初めて私との交流と言う事になるのじやないでしょうか。
 私との交流即生神金光大神との交流であり即、天地金乃神との交流と言う事になるのです。私が命がけで一生懸命になったとか、私が有難い有難いの権化であるとか、私が撫でさすりしてなら人を助けるとかそう言う時代もあったんですよ昔は。けどそれがより本当なことになって来るときに、次の信心にサット飛躍してして行って今日の合楽があるのです。御霊様関係のことを言った時代もありました。
 どうも頭が痛いと言いよると頭の痛い信者参ってくる。どうもお腹が痛いと思いよるとお腹が悪い、胃の悪かち言ひよると胃の悪か人が参ってくると言う様な時代もありました。ですからその時点、時点でそれが嘘と言う事じゃないです。けれども矢張りより本当を求めて行く事なんですから。だからなら言うなら様々な、金光教の中にも様々な信心がありますけれども、そう言う信心の方達も。
 もう一段信心を進めて合楽理念を基にした助かり、合楽理念を基にしてお取次が出来ると言った様な先生方信者が言わば出来なければならん。言うならば且てないおかげが生みなされておる事実から言うてもです、皆さんがそれを分かり、また信じなければいけないと思うんです。今日は金光大神助けてくれと言えば、天地金乃神と言わんでも良い、まさかの時には金光大神助けてくれと言えば良いと言うその事をです、如何に教祖金光大神様が天地金乃神様と交流しておられたことかと言う事を聞いて頂いた。
 だからその金光大神の信心をです様々な角度から頂いておる方も沢山おりましょうけれども合楽理念はその芯をなすもの、金光大神の信心の芯をなすもの、その芯をなすものと芯とが一つになった時に言わば本当のおかげ。金光教の中でも真の金光教の中でも真の中の信心とこう申しますならです、その真と真が一つになって交流するのですから、そこに真のおかげがそこに生みだされて来るわけなんです。
 今朝から頂くそのガラス張りの中の私、ガラス張りの中の合楽教会、これは大変な本当に求信な人、言うならば信心を求めておる人にあるならば大変魅力に見えるのではないでしょうか。その代り又なら悪い所があれば悪い所が一遍に発見される所もあります訳。だから愈々私供の周辺にはそう言う鵜の目鷹の目と言うとちよっと 語弊がありますけれどもね。そうですね昨日学院から電話が掛かってきた。
 その学院の合楽の修行生が六人ながらレポ一トを便箋五、六枚に書かなければならない、書いて出した所が言うならば合楽理念に基づいたところを書いとるわけです。合楽理念とは言わんけれども。ですがそこには必ずこういうおかげとか有難いとか、勿体ないが出てくるわけです。だから有難いとか勿体ないとかね、例えばお前達位いなものが頂ける筈はないんだと、だからそう言うことは書き直せと言って、言われたからどう書き様がないと言うのです。
 マア言うならば合楽の修行生が鵜の目、鷹の目ぢやないですけど悪か所があったら、とっちめちゃろうと言う感じさえするのですよ。先日も学監の時に先生の話を目をつぶって或る合楽の修行生が聞きよった。そしたらお前は眠っとると言うて、しかも満座の中であんまり言われたのでとうとう泣き出したと言う事です。そりや本当に眠とったかもしれません。だけど大の男が泣き出す位ですから余程辛辣だっただろうと私は思うんです。それで神様にすぐお取り次ぎさして頂いたら特訓と言う事を頂きましたです。
 合楽の者だけ特訓を受けておるんだ、特別の訓練を受けておるんだと、私は感激しました。本当にお礼を申し上げる意外にない。そう言う頂き方でもです合楽理念を基にしなければ、師匠である私がです、内の弟子をこなすならばお前はどこがそげんあるのかと言って行きたいところ普通で言うならば、けれどもですその先生ならその先生を通して合楽の修業生だけを特訓と受けておると思うたら却ってお礼を申し上げる様な心が生まれてくるんです。そう言う意味でなら見られておる場合もあるし。
 かと言ってです、合楽の御比れいに只ごとではない、これは何かがあるだろうと良い意味でどうか、合楽の中に入っていかれるなら、もし入ってでも行きたいと言うならばそれこそガラスの向こうからでもです、合楽の信心に触れたいと思うておる人もまた沢山あると言うことです。ですから私共がまずガラス張りの中にある私共がです、おかげを頂かなければいけない。
 昨日和子先生が一寸久留米に用事があって参りました。それで駐車場に入れて出そうとする時に横ぞの車にかちっと当てた、それで向こうのとがやあやあ腹けえてから喧しく言うげなけんで、もう修繕してあげたらよかでしよぅもんと言うた。修繕してやれば良かでしょうとは何と言う事か、と言うえらいおごられたと言う事ですけれどもね。本当にそして後でもう本当に言うならばです。
 もう本当に心行を頂き続けておる様であってもそう言う時に済みませんと、もうどんなに言われても済みませんの 一点張りでなんと言えなかったと言う事がてす。その後先に神様のこう言う事が起こってくる事をちゃんと頂いとるのです。だからそう言う時には日頃の信心でこう受けようと、突嗟の場合はあまりやかましく言われたけんで、修繕して戻したらよかろうもん、修繕して戻しゃよかろうもんちゃ何と言う事か。
 もう修繕して請求書をお前の所にやるけんでお前の所で払えと、言われてから向こうの名刺を貰うて来た。そしたらそれがすぐ自分方の実家の近所の人やったそうです。私共突嗟の場合、合楽理念を基にして信行し続けとるごたるけれども突嗟の場合です、それこそ信心の無い者と同じ様な状態になっておる事が多いのです。実際はですから愈々その合楽理念なら合楽理念を知っとります、マスタ一しとりますではなくてですそれが血、肉になる所まで一っ本気で頂かにゃいけん。
 そこにです私はそのガラス張りの中にいる私、ガラスの中にある合楽信者信奉者と言う者がです愈々素晴らしい上にも素晴らしい物に見えて来る事になる。合楽理念を宣伝すると言う訳じゃない。合楽理念を基にしなければ真の金光大神の信心を言うならば表す事は出来ないと私は思うのです。そう言う意味での私共は使命がある。その使命感にたって愈々親先生と交流し、金光大神天地金乃神と交流し、しかも肝心要の所が交流して良いものが愈々生みなされて来る所のおかげを頂き現して行くおかげをひとつ頂きたいですね。
   どうも。